2010年5月12日
トヴェリ大公
トヴェリ公国の祖であるヤロスラフ・ヤロスラヴィチの息子、ミハイル・ヤロスラヴィチ(トヴェリのミハイル)は1285年にトヴェリ大公となりリトアニアやスウェーデンと戦い、1305年にはウラジーミル大公として戴冠し「全ルーシ(ロシア)の大公」を自称した最初の大公となった。彼は中世ロシアでも最も敬愛を集めた君主であったが、ウズベク・ハン率いるジョチ・ウルスおよびその後ろ盾を受けたモスクワ大公国と戦ったため、1318年にウズベク・ハンの首都サライで殺された。息子ドミトリー・ミハイロヴィチが跡を継ぎ、強国であったリトアニア大公国と組んでトヴェリ大公の力を高めた。
ドミトリーの力の伸長にいらだったモスクワ大公国の大公イヴァン・カリタ(イヴァン1世)は巧みにジョチ・ウルスを操り、1326年にはドミトリーはウズベク・ハンに処刑された。翌1327年、トヴェリでは代官としてウズベク・ハンが派遣した息子チョルの圧政に耐えかね、生神女就寝祭(8月15日)の日にタタールの圧制に対する民衆の暴動が起き、チョルも殺害された。イヴァン1世はウズベク・ハンと大軍を率いてトヴェリを襲い、暴動を弾圧し、市民の多くを殺害・奴隷化・追放し、トヴェリ大公でドミトリーの弟アレクサンドル・ミハイロヴィチはプスコフへ逃亡した。この虐殺はトヴェリ大公国に対する致命傷となった。アレクサンドルはリトアニアの後ろ盾でイヴァン1世に再び対抗したものの、最終的には計略にかかりウズベク・ハンに処刑された。
ミハイル・アレクサンドロヴィチの治めた14世紀後半およびイヴァン・ミハイロヴィチが治めた15世紀前半、トヴェリ大公国はなんば デリヘル大公の地位を巡る争いでさらに弱体化した。カシン分領とホルム分領は大公家の分家であり、大公家とも激しく争った。この争いに対しモスクワ大公国が分領を支援 して介入し、仲介にもあたった。
モスクワ大公ヴァシーリー2世の治世前半の1420年代から1450年代、モスクワ大公国では大公位をめぐる内戦が起き、トヴェリ大公国は再度重要な勢力として登場し、リトアニア大公国、ノヴゴロド公国、東ローマ帝国、ジョチ・ウルスなどと連合した。この時期、トヴェリ大公ボリス・アレクサンドロヴィチはアファナシイ・ニキティン(アタナシオス・ニキチン、Afanasiy Nikitin)を金やダイヤの探索のためインドに向かわせている。1466年から1472年までのニキティンの旅行記は、おそらくヨーロッパ人最初のインド旅行記であろう。1955年にはトヴェリのヴォルガ川沿岸にニキティン像が建てられている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
ミハイル・ヤロスラヴィチは1285年にトヴェリ大公になりました。
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